クラーク博士
略歴(資料参照:ウィキペディアを改変)
1826年7月31日、医師であったアサートン・クラークを父、ハリエットを母としてマサチューセッツ州アッシュフィールドで生まれる。1834年ころ一家はマサチューセッツ州のイーストハンプトンに引っ越した。ウィリストン神学校で教育を受け、1844年にアマースト大学に入学。Phi Beta Kappa(ファイベータカッパ;全米優等学生友愛会)の会員となる。1848年に同大学卒業した。
1848年から1850年にウィリストン神学校で化学を教え、化学と植物学を学ぶべく、ドイツのゲッティンゲン大学へ留学、1852年に同大学で化学の博士号取得した。成績が非常に優秀であったので、同年、20代にして教師就任の要請を受けてアマースト大学教授となり、分析化学と応用化学を担当して1867年まで担当した。また化学だけでなく動物学と植物学も教え、計3つの専門を教えるという活躍をした(動物学は1852年~1858年、植物学は1854年~1858年に担当)。
じきにクラークは農業教育を推進しはじめる。ゲッティンゲン大学で学んでいた時期にすでにそれに着目していたのである。1853年には新しく設立された、科学と実践農学の学部の長になる。しかし、あまりうまくゆかず、1857年には終了した。これによってクラークは、新しい農学教育を効果的に行うためには新しいタイプの教育組織が必要なのだということに気付いた。マサチューセッツ農科大学(現マサチューセッツ大学アマースト校)第3代学長に就任した(初代と2代学長は開学前に辞任しているため、クラークが実質的な初代学長である)。1860年~1861年にHampshire Board of Agriculture(ハンプシャー農業委員会)の長に就任した(1871年~1872年も再度就任)。途中、南北戦争に参加することになり、クラークのアカデミックなキャリアは一旦中断する。
アマースト大学で教えていた時期、学生の中に同大学初の日本人留学生がいたが、それは新島襄(同志社大学の創始者)である。任期中には新島襄の紹介により、日本政府の熱烈な要請を受けて、1876年(明治9年)7月に札幌農学校教頭に赴任する。マサチューセッツ農科大学の1年間の休暇を利用して訪日するという形をとった。クラークの立場は教頭で、名目上は別に校長がいたが、クラークの職名は英語では「President」と表記することが開拓使によって許可され、殆ど実質的にはクラークが校内の全てを取り仕切っていた。8ヶ月の札幌滞在の後、翌年の1877年5月に離日した。
帰国後はマサチューセッツ農科大学の学長を辞め、洋上大学の開学を企画するが失敗。その後、知人と共に鉱山会社を設立し、当初は大きな利益を上げたが、やがて会社は破産。その後破産をめぐる裁判に訴えられて悩まされた。その後心臓病が発生して寝たり起きたりの生活。1886年3月9日、心臓病により59歳でこの世を去った。彼はアマースト町ダウンタウン内にあるウエスト・セメタリーに葬られている。
「クラーク博士小伝」の頒布について
クラーク博士の生涯を紹介しました小冊子「クラーク博士小伝」を作成し、可能な範囲での頒布をしています。ご希望の方は問い合わせください(本HPの問い合わせフォームをご活用ください)。