中山久蔵翁
中山久蔵(1828〜1919)
略歴
中山久蔵翁は、1828年(文政11年)河内国石川郡春日村(現在の大阪府南河内郡太子町春日)で農業を営む旧家・松村家の二男として生まれる。17歳の時、家人の反対を押し切って家を飛び出し江戸に下った後、諸国放浪の旅に出た。久蔵翁は25歳の時、1853年(嘉永6年)、仙台藩士片倉英馬の下僕となる。当時幕府は北海道がロシアに侵略されることがないように東北の各藩に警備を命じていた。久蔵翁は、嘉永7年(1854)仙台藩の命で白老に来る。その後、仙台と白老の間を往来するようになる。明治維新を迎え、久蔵翁は明治元年(1868)仙台藩士のもとを辞し、静岡に居を移す。自分の半生を厳しく顧み、何一つ世に残ることができなかったことを恥じ、余生を蝦夷地(北海道)の開墾にささげようと決心する。久蔵翁42歳のときである。
蝦夷地の開墾を決意した久蔵翁は1869(明治2年)白老に来村し、翌年苫小牧に入植する。しかし、そこは支笏•樽前の噴火で厚く礫を含んだ火山灰で厚くおおわれ、また6月下旬から8月上旬にかけ海霧におおわれる日が多く、日照不足と低温のため農業には向かない土地であった。1871(明治4年)、久蔵翁は肥沃な土地を求めて北上し、千歳郡島松(恵庭市)に入植後、1873年(明治6年)には札幌郡月寒村島松(現北広島市)に移り、稲作が困難とされていた寒冷地の道央における挑戦を開始した。実績のある道南から寒さに強いとされていた「赤毛」と「白髭」の2種を持ち帰り、水温を高めるなど並々ならぬ努力の結果、同年秋には10aあたり345kgの収穫物を得た。久蔵翁46歳のときである。その後、毎年秋に寒さに強く旺盛な生育をした株から種もみを得ることを繰り返し、寒さに強い「赤毛種」を開発した。
1879年(明治12年)からは、開発した「赤毛種」の種もみを全道各地に無償配布し、稲作が全道に広がった。1886年(明治19年)からは、北海道庁民間指導員として、種もみの無償で配り、農家を訪ね歩き栽培法を指導した。開発した「赤毛種」は、その後の品種改良にも利用され、現在の北海道における多くの良食味米品種に貢献している。
明治から昭和21年まで北海道周辺地の交通補助機関として、宿泊・人馬継立・郵便などを「駅逓所」が担っていた。1884年(明治17年)、久蔵翁は島松駅逓所取締役として大きな役割を果たした。
多くの偉大な成果をあげ、1919年(大正8年)2月13日、島松で亡くなった。享年91歳であった。お墓は北広島市仁別、北広島霊園内にある。
「中山久蔵翁小伝」の頒布について
中山久蔵の生涯を紹介しました小冊子「中山久蔵翁小伝」を作成し、可能な範囲での頒布をしています。ご希望の方は問い合わせください(本HPの問い合わせフォームをご活用ください)。