認定特定非営利活動法人
クラーク博士別れの地・久蔵の里普及促進会

北星学園女子中学高校・北星学園大学・北星学園大学付属高校

北星学園女子中学高校(札幌市中央区南4条西17丁目)
ホームページ:https://www.hokusei-ghs-jh.ed.jp/
北星学園大学(札幌市厚別区大谷地西2-3-1)
ホームページ:https://www.hokusei.ac.jp/
北星学園大学付属高校(札幌市厚別区厚別町下野幌)
ホームページ:https://www.hokusei-s-h.ed.jp/

 ここでは、クラーク博士の札幌農学校での教え子たちの支援によりサラ・C・スミスが女学校を設立し大きく発展させた経過について紹介します。
 現在の北星学園女子中学高校や北星学園大学・北星学園大学付属高校については、それぞれのホームページをご覧ください。

サラ・C・スミスによる女学校の開設

 北星学園女子中学高校、北星学園大学・北星学園大学付属高校は、アメリカ人宣教師サラ・C・スミスによって、明治20年1887年1月15日に札幌市北1条西6丁目に開設されたスミス女塾が始まりです注1)。
 明治初期はアメリカを中心に宣教運動が盛んな時期で、スミスが育ったニューヨーク州エルマイラもその拠点の一つとなっていました。彼女は、第一長老教会に属しており、そこからはアフリカやインド、中国、日本などに宣教師が派遣されていました。スミスも宣教師として、明治13年(1880年)に来日し、東京の私立新栄女子学校(現、女子学院)の校長を務めていましたが、健康を害し本部から帰国を勧められました。しかし、彼女は本部の命令にそむき、明治16年(1883年)に函館・札幌で療養し、回復後に函館で英語教師を務めたほか、函館一致教会などで働きました注2)。
 明治19年(1886年)に、北海道尋常師範学校の外国人教師に採用されたスミスは、「北海道の女子教育のために、キリスト教に根ざした学校づくりをしてほしい」という大島正健ら札幌農学校の1・2期生の奨めもあり、札幌に女学校を開校することを決意したのです。
 当時、スミスは、昼間は学校で教鞭をとり、夜間は婦人たちに英語や料理を教えていました。北海道庁長官の岩村通俊からその熱意が認められ、「札幌長老派伝道協会寄宿女学校」を開設することになります。当初は旧厩舎を改造した小さな教室で、教え子は函館から連れてきた7人の少女でしたが、間もなく生徒は46人に増え、岩村長官は新たに2階建ての校舎を建て、スミスの女子教育を支援しました。札幌農学校の卒業生である大島正健も第3代の校長を務め、スミスを助けています。
 明治22年(1889年)には、女学校の認可を得て「スミス女学校」となり、明治27年(1894年)に、札幌農学校の2期生である新渡戸稲造や宮部金吾らの助言もあり、「北星女学校」と改名し、北海英語学校の旧校舎(北4西1丁目)を買い取り移転しました。以降、学校の体制が整い、所有地の拡張や校舎の増改築が進みました。

北星学園女子中学高校の創設者サラ・C・スミス( https://www.hokusei-ghs-jh.ed.jp/future/より)
スミスが函館から連れてきた第2回生河合リユ(左)、時任ちか(右) 出典:出典:「北星学園女子中学高校史」より
1894年改装なった北4条西1丁目の校舎 出典:「北星学園女子中学高校史」より
教会設立への支援

 他方で、サラ.C.スミスや北星学園の宣教師たちは、札幌北一条教会の会員となり、教育と教会形成にも励んでいました。北一条教会のルーツは、1890年 4月19日、北海道開拓の行政基地として形成されつつあった札幌に室蘭、函館、伊達の諸教会から移住して来た信徒たち20名が集い、「日本基督一致教会札幌講義所」が開設されたことに始まります。講義所は、札幌農学校・北星女学校の関係者たちに支えられて、明治28年(1895年)「札幌日本基督教会」として新たにスタートし、北一条教会が誕生しています注2)。

サラ・C・スミスの後継者

 北星女学校の体制が整い順調に発展していた時期、スミスは持病のリウマチスが悪化し、クララ・ローズや、ピアソン夫人、リリアン・ウエルスなどに学校運営の協力を要請していました。明治38年(1905年)には、当時東京女子学院の教師を務めていたアリス・モード・モンクがスミスを支援するため来札することになり、スミスはモンクを後継者として全てをゆだねることになります。その後もスミスは、昭和6年(1931年)に帰米するまでの50年にわたり、自らの全てを捧げ教育に取り組み、アメリカに帰国後、昭和22年(1947年)に95歳で亡くなっています。

北星学園女子中学高校の歴代の校長: 上段の右から2人目、第3代校長大島正健
北星女子学校の発展

 サラ・C・スミスが帰国後も、北星女子学校は発展をとげ、終戦後の昭和22年(1947年)に新制北星中学校を開設(同年6月北星学園中等部と名称変更)し、法人名を北星学園に名称を変更しています。昭和23年(1948年)には北星学園高等学部普通科が開設され、翌年昭和24年(1949年)北星学園中学校・北星学園高等学校に名称変更しました。昭和26年(1951年)には「北星学園女子短期大学」が開設されました。
 昭和37年(1962年)には北星学園中学校を北星学園女子中学校に、北星学園高等学校を北星学園女子高等学校と名称変更し、北星学園大学が設立されています。この年には、北星学園男子高等学校が札幌市琴似町(現札幌市西区八軒)に開校しています。
 平成14年(2002年)には、北星学園女子短期大学が北星学園大学短期大学部に名称を変更し男女共学になりました。また、北星学園男子高等学校が北星学園大学付属男子高校に改称されています。
 こうして、サラ.C.スミスが北海道に撒いた種は、大きく成長をとげ次々と花を咲かせてきたのです。

北星学園創立百周年記念館(1998年国の登録有形文化財に指定) 出典:北星学園女子中学高校HP

注1) 新札幌市史デジタルアーカイブ
注2) 札幌北一条教会ホームページ:http://ss618373-starsnejp.check-star.jp
注3)「北星学園女子中学高校史」
注4)北星学園大学ホームページ:https://www.hokusei.ac.jp/about/history/