石橋湛山記念館 (山梨平和ミュージアム)
石橋湛山記念館 (山梨平和ミュージアム)(山梨県甲府市朝気1-1-30)
ホームページ:http://ypm-japan.jp
首相経験者でリベラリストとして平和・民権・自由主義を唱えた石橋湛山は、クラーク精神を受け継いだ人物としても知られています。湛山は、クラーク博士から直接教えを受けてはいませんが、山梨県第一中学校時代に、札幌農学校の第一期生である大島正健(甲府第一高校第7代校長)から強い感化を受けており、その後の人生でもクラーク博士の“Boys,be ambitious!”に込められた精神を忘れることはありませんでした。
ここでは、石橋湛山の功績を後世に伝えるために設立された石橋湛山記念館(山梨平和ミュージアム)について紹介します。山梨平和ミュージアムの展示内容や活動の詳細については、ホームページ(
http://ypm-japan.jp/をご覧ください。

石橋湛山は、明治17(1884)年9月25日に東京市麻布区芝二本榎で生まれています。実父の杉田湛誓(後の身延山久遠寺81世法主の杉田日布)と母きんの長男として生まれ、事情があって母方の「石橋」姓を継いでいます(幼名は省三で、1902年に湛山に改名)。明治18(1885)年3月、父が増穂村昌福寺の住職となるに伴い、母とともに甲府市稲門に転居します。明治27(1894)年9月に増穂村尋常高等小学校高等科1年から鏡中条村尋常高等小学校高等科2年に転校し、翌年、甲府市の山梨県尋常中学校(甲府第一高校の前身)に入学しました。途中2回留年しましたが、このことがその後の湛山の人生にとって幸運をもたらします。湛山の最後の学年であった明治34(1901)年3月に大島正健が校長として赴任し、石橋湛山は大島正健と出会うことになったのです。
この年に山梨県尋常中学校は、山梨県第一中学校に改称され、翌明治35(1902)年3月に湛山は卒業し、東京神田の正則英語学校に第一高等学校受験のために入学しました。その後、第一高等学校を2回受験しますが不合格となり、明治36(1903)年7月、早稲田大学高等予科に編入試験を受け9月に入学します。湛山は、明治40(1907)年に早稲田大学文学部文学科を首席で卒業し、特待研究生として宗教研究科に進みます。修了後に東京毎日新聞社を経て、明治44(1911)年1月、東洋経済新報社に入社し『東洋経済新報』の記者となり、昭和16(1941)年には社長に就任します。35年間にわたる東洋経済新報社での記者生活で、湛山は平和・民権・自由主義の立場を貫き、「大日本主義の幻想」などを執筆、「小日本主義」を主張しました。
戦後、政界に転じた湛山は、昭和21(1946)年には第1次吉田内閣では蔵相に就任することになります。昭和22(1947)年には、静岡県第2区で衆議院議員に当選しましたが、公職追放となり一旦辞任し、その後1963年まで議員を務めています。
昭和29(1954)年には、鳩山内閣の通産相に就任し、昭和31(1956)年12月に自民党初の総裁公選で岸信介を破って総裁となり、72歳で首相に就任しました。「わが五つの誓い」を掲げて全国遊説をしましたが、病気のため翌32年2月に辞任せざるを得ず、65日の短命な内閣となってしまいました。
晩年は、日中国交回復、日中米ソ平和同盟構想等を掲げて国際平和に尽力し、昭和47(1972)年9月の『石橋湛山全集 全15巻』完結を見届けた、翌昭和48(1973)年4月25日に88歳で亡くなっています。

石橋湛山が、大島正健校長から薫陶を受けたのはわずか1年でしたが、「其の一年間に、いまだかつて知らざる強き感銘を受けた。其の感銘は私の一生を支配した」(「大島先生と香南先生」山梨県立甲府中学同窓会報第1号)と述べており、大島校長からの感化の大きさを吐露しています(注1)。
クラーク博士の教えは旧札幌農学校の学生達に強い影響を与えましたが、クラーク精神とも呼ばれる教育精神や思想は深く学生達に影響を与え、更にその教え子達にも受け継がれました。そうしたクラーク博士の孫弟子ともいえる人物がまさに石橋湛山なのです。
現在の山梨県甲府第一高校の庭には、石橋湛山の揮毫による「Boys, be ambitious!」と「青年奮起して功名を立てよ 馬上の遺言熱誠籠る 別路春寒し島松の駅 一鞭直ちに蹴る雪泥の行 クラーク先生を憶ふ 大島正健」の言葉が石碑に刻まれています
山梨平和ミュージアム―石橋湛山記念館―は、「伝えたい戦争の記録・記憶を」との市民の声を結集し、平成19(2007)念5月に開館した民立民営の博物館です。前身の市民団体「山梨県戦争遺跡ネットワ-ク」の10 年間の調査や資料収集を経て、約 800 人の市民の賛同金で設立されました。
山梨県立甲府第一高校で教鞭をとったことのある浅川保氏が、現在、理事長をつとめています。浅川氏は、甲府第一高校教員時代(1980~1991年)に石橋湛山の中学時代の文章を発見し、それをもとに『偉大な言論人 石橋湛山』(山日ライブラリー 2008年)を発表しており、記念館の展示では石橋湛山関連の豊富な資料と功績が年代を追って見ることができます。
ミュージアムの1階は、戦争と平和をテーマとして資料や戦争遺品などが展示されています。1945年7月の甲府空襲について、亡くなった1127 人全員の名前や元日航機長・諸星廣夫氏と米軍B29飛行士との交流で明らかになった空襲の実態や歴史を伝えています。また、スペイン・ゲルニカや中国・重慶などでの戦略爆撃の歴史、フィリピン・レイテ戦でほぼ全滅した甲府連隊の歴史についても紹介しています。当時の教科書やパネルなどで戦時下の教育や暮らしぶりを知るコーナーもあります。
2階は、石橋湛山の生涯と思想を展示する全国唯一の記念館となっています。東洋経済新報社の記者・言論人として、大正から昭和の戦時下、平和・民権・自由主義を唱え、戦後は首相になった歩みを写真や資料、パネルで紹介しています。
ミュージアムでは、2千冊以上の図書と200点以上のビデオを所蔵しており、市民が提供した資料が並ぶ「私の展示コーナー」も設けられています。また、戦争体験者の証言や、戦争と平和に関する講演会など市民を対象とした講座を毎月開催しており、半年ごとの企画展(現在は「戦後80年、歴史と今を考る」)も行われています。
ミュージアムは、市民が戦争と平和に関する情報を持ち寄り、学習、発見、交流ができる「平和の港」を目指しています。



(注1) 浅川保『偉大な言論人 石橋湛山』(山日ライブラリー 2008年)