認定特定非営利活動法人
クラーク博士別れの地・久蔵の里普及促進会

新渡戸記念館

新渡戸記念館(青森県十和田市東三番町)
ホームページ:http://www.nitobe.jp/

 新渡戸稲造は、札幌農学校の2期生で、クラーク博士から直接は教えを受けてはいませんが、この頃はまだ学生達の間にクラーク博士の教育精神や思想が色濃く残っており、稲造もまた1期生を通してその影響を強く受けています。
 ここでは、新渡戸稲造の足跡と稲造が農学を志す切っ掛けともなった三本木原開拓の歴史を展示している新渡戸記念館を紹介します。
新渡戸記念館の詳細については、ホームページ( http://www.nitobe.jp/)をご覧ください。

新渡戸記念館 出典: http://www.nitobe.jp/
新渡戸稲造の生い立ちと足跡
稲造の幼少期

 新渡戸稲造は、文久2年(1862)8月3日に父・十次郎と母・せきの三男として盛岡に生まれました。当時、父と祖父は三本木原(十和田市の基になった地域)の開拓を進めていましたが、慶応3年(1867)稲造5歳の時に父・十次郎が亡くなり、明治4年(1871)に、稲造は祖父・傳の勧めもあり、東京で学ぶため叔父・太田時敏(傳の四男、太田家に養子)の養子となり上京しました。明治8年に13歳で東京英語学校に入学し、この頃から生涯の親友で後に札幌農学校の同期生となる内村鑑三(キリスト教思想家)や宮部金吾(植物学者)と親交を深めます。

札幌農学校への入学とキリスト教

 その後、明治10(1877)年に内村、宮部とともに札幌農学校に入学しました。農学校に入学した切っ掛けは、明治9年明治天皇が東北御巡幸の際に、父祖の行った三本木原開拓が称賛されたことだったと言われています。入学当初に1期生からクラーク博士の残した「イエスを信ずるものの誓約」への署名を勧められ、農学校入学前からキリスト教に興味をもっていた稲造は早速に署名します。その後、同期生と共に函館に駐在していた宣教師から洗礼を受け、この時の深感銘は、その後の稲造の足跡に大きな影響を与えています。

アメリカ・ドイツ留学と結婚

 明治14年(1881)札幌農学校を卒業し、開拓使御用掛、農商務省御用掛を経て、明治16年(1883)上京し、成立学舎英語教師を一時務めました。その後、東京大学に入学し、英文学や農政学研究のための経済学や統計学を学びましたが、講義に飽き足らず退学し、米ジョンズ・ホプキンス大学に留学し経済、農政、英文学などを学ぶことになりました。留学中に、プロテスタント・クエーカー派に入信しこの時に後に結婚するメリー・エルキントンと出会いました。
 明治20年には札幌農学校から助教として、3年間農政学研究のためドイツ留学を命ぜられ、ボン大学、ベルリン大学、ハレ大学で農政学、農業経済学、財政学などを学び、ハレ大学よりの学位を得ています。ドイツ留学の後、研修期間を半年延期して米国へ渡り、ジョンズ・ホプキンス大学から『日米関係史』を出版します。ドイツ留学中に、メリー(万里)とフィラデルフィアで結婚しています。

札幌農学校教授時代と遠友夜学校

 ドイツからの帰国後に、札幌農学校教授となり農学関係科目だけでなく語学など多くの科目を教えました。明治26年に万里夫人はエルキントン家からの遺産をもとに、勤労青少年のための夜学「遠友夜学校」を設立することになります。この遠友夜学校は、主に札幌農学校の学生が教師となり完全なボランティアで運営され、官憲の圧力で廃校になるまでの50年間に、約6000人の生徒が学びました。

『武士道』の執筆と台湾総督府での活躍

 稲造は、札幌農学校では多忙を極め、ついに明治30年(1897)には過労のため鎌倉や伊香保で転地療養することになり、療養中に『農業発達史』『農業本論』をまとめました。翌年には、職を辞しカリフォルニアで転地療養し、その間に英語で『武士道』を執筆しました。この著作は、武士道が日本人の精神土壌にどのように影響を及ぼしたかを欧米の人びとに紹介したものです。
 明治32年(1899)には、ドイツのハレ大学で農業経済学の博士号を取得しています。その後、民政長官の後藤新平らからの強い要請で、台湾総督府で働くことになり、稲造が提出した『糖業改良意見書』をもとに台湾糖業の振興が進み、台湾財政の独立に大きく貢献しました。

第一高校での教育活動と女子大学の創設

 明治36年(1903)に台湾総督府臨時糖務局長と兼任で京都大学教授となり、翌年には専任になります。明治39(1906)年には東京帝国大学農科教授と兼任で旧制1高の校長となります。それ以降、大正2年(1913)に東大専任教授となるまでの6年間、稲造は1高校長として欧米的な自由で革新的教育方針のもと生徒を教育し、多くの優秀な人材を送り出しますが、学校内外の保守的な人々から批判を受け、そのため1高の校長を退任することになってしまいました。
 また、当時立ち後れていた女子教育にも熱心に取り組み、安井てつやA.K.ライシャワーと共に、大正7年(1918)に 東京女子大学を設立し初代学長に就任しています。

太平洋のかけ橋として捧げた晩年

 第1次大戦の終結後、大正9年(1920)に国際連盟が結成され、稲造は事務局次に就任し、大正11(1922)年には、ユネスコの前身の知的協力委員会を発足させています。昭和4年(1929)に太平洋問題調査会の理事長となり、同年京都で開催された第三回太平洋会議では議長を務めました。
 昭和6年9月に満州事変が勃発し、諸外国の日本への非難が高まり日米関係も悪化し、稲造は「太平洋のかけ橋」として奔走することになります。稲造は、昭和7年(1932)年に渡米し、フーバー大統領を訪問やスチムソン国務長官との対談をラジオ放送で行うなど日本の立場を訴えましたが米国世論に受け入れられず翌年3月帰国、その直後、日本は国際連盟を脱退します。
 8月には平和への最後の望みをつなぎ、カナダのバンフでの第5回太平洋会議に出席し、日本側代表としての演説を成功させるもその一ヶ月後の昭和8年10月15日に、カナダのビクトリアで 71歳の生涯を閉じました。

新渡戸稲造; 出典:盛岡市先人記念館HP https://www.mfca.jp/senjin/nitobe/index
新渡戸記念館

 新渡戸記念館は、新渡戸稲造と地元三本木(現十和田市)の従兄弟たちが設立した私設の新渡戸文庫が始まりです。昭和40年(1965)に十和田市が新渡戸家協力のもとに市立博物館が設立されましたが、平成27年(2015年)に市は建物の耐震強度不足を理由に記念館の廃止方針を出しました。紆余曲折の末、改築後2023年12月からは新渡戸記念館ボランティアKyosokyodo(共創郷土)が新渡戸家と協力して運営する博物館となっています。
 記念館の目的は、開拓の偉業を後世に伝えるために三本木原開拓の歴史的資料や新渡戸家伝来の甲冑などの文化財を永久に保存し開拓の偉業を後世に伝えることです。併せて、新渡戸稲造の国際人としての功績を顕彰し、稲造夫妻の遺品の展示や蔵書約7,000冊を保管しています。博物館兼図書館としての活動も行っており、企画展などが常時開催されています。
 なお、新渡戸稲造の父祖のゆかりの地である岩手県花巻市には、花巻新渡戸記念館があります。ここでは武将、兵学者としての新渡戸氏の甲冑や刀、槍などのほか、新渡戸氏の花巻での活躍、特に新田開発などが展示されています。また、新渡戸稲造の業績や活躍の足跡についても紹介しています。

三本木原開拓コーナー 出典: http://www.nitobe.jp/

注)このページ作成に当たり下記を参照しました。